お笑い紳士録 「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」
千代若・千代菊師匠の高座を初めて見て「これが本物の漫才かあ」
【いつの間にか松鶴家の内弟子に】
家出同然で上京した千とせは、ひょんなことから松鶴家で寝泊まりすることに。歌のレッスンのかたわら、掃除をしたり食事を作ったりしているうちに、いつの間にか松鶴家の内弟子になっていた。
「まだ15歳、昭和28年のこと。NHKと日本テレビが日本初のテレビ放送を開始した年だね。とはいえ、テレビ受像機の価格は10万円以上で一般的な会社員の年収に匹敵する高額商品。みんな街頭テレビで大相撲中継などを楽しんでた」
内弟子生活が始まったある日、千代若・千代菊師匠が「これから上野広小路の鈴本演芸場に出るから、三味線と鼓を持ってついてきなさい」と声をかけた。千とせはそこで初めて両師匠の芸を見る。
「千代若が鼓、千代菊が三味線を持って高座に上がり、ゆったりとした喋りの掛け合いで観客を笑わせるんだ。最後に千代若の決め台詞、『母ちゃん、もう帰ろうよ』でどっと大きな笑いが起こった。弟子たちの練習風景とはまったくレベルが違うよ。『これが本物の漫才かあ』って深く感動したのを覚えてる」
【食事作り、掃除、犬の散歩と忙しい日々】
内弟子生活では自分の時間というものがほとんどなかった。朝は一番早く起きて師匠と師匠の家族、そして弟子たちの朝食を作る。食品の買い出しも千とせの仕事だ。さらに、隅々まできれいに掃除をしたり、飼っている犬を散歩に連れて行ったり、風呂を焚いたりと非常に忙しい日々だった。
他にも、師匠がやってくれば玄関の草履を揃える、座布団に座ったらお茶を灰皿をさっと置く。これらを完璧にこなさないと怒られたが、福島時代の野良仕事で鍛えられたせいか、体はなんとか持ったという。
「もちろん、楽しいこともあったよ。町内の祭りでお弟子さんたちがステージに上がるんだ。それを手伝っているうちに、『歌を習ってるんなら一曲歌えよ』となって。即興でコンビを組んで漫才もやった」
緊張しながらも、兄弟子は「ただ突っ立ってればいいから」とやさしい言葉をかける。また、コロンビア・トップ・ライトらのベテラン芸人が「麻雀をやりに行くぞ」と言うと、お供して細々と身の回りの世話を焼いた。
「トップライトは自分のステージにおまけとして出してくれたこともあった。『ウチの新弟子が漫才をやります』とかなんか言ってね(笑)。よく考えたら無茶な話だけど、あれでだいぶ度胸がついたと思うよ」
【師匠も「そろそろ出て行け」と言わない】
内弟子は住み込みなので家賃はかからない。しかし、歌のレッスン料を払う必要がある。福島から持ってきたお金はすぐに底を尽きたが、こうしてだんだん仕事が増えてきたおかげで、なんとか生活はできた。
「先輩に恵まれていたんだね。僕のことをうまく使ってくれた。よそではいじめもあったかもしれないけど、僕の場合はなぜかみんなにかわいがってもらって。何でも『はいっ』と返事をして一生懸命働いたからかもしれない」
先輩たちは目をかけてくれる。師匠も「そろそろ出て行け」と言わない。田舎の親とは連絡を取らなかった。東京に住んでいる姉には時々会っていたため、事情がわかっているだろう。そんなことを考えながら内弟子生活を続けていた。
【師匠にひと言!】
小中学校の同級生
堀内勝栄さん
最初に出会ったのは福島県相馬郡の太田小学校。満州帰りの師匠が転入してきたんだよ。転校生だからみんなと馴染むのは大変だったと思うけど、持ち前のひょうきんさですぐに打ち解けてよく一緒に遊んだなあ。芸能界に入ったことも知らなくて、たまたま『夕刊フジ』を見てたら師匠が出ていてびっくり(笑)。芸名だけどプロフィールを見て、「あ、あの子だ」と。編集部に電話番号を教えてもらって、数十年ぶりに再会。CMにもバンバン出て有名人なのに昔と同じように気さくだった。ああ見えて、じつは努力家で苦労人。故郷の誇りです。

松鶴屋千とせ
日本の漫談家、歌手、司会者。小谷津家は下り藤の家紋である。
元東京演芸協会常任理事、南相馬市ふるさと親善大使、東京都足立区在住。アフロヘアーと、「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」のフレーズ、「イェーイ!」で決めるピースサインのポーズがトレードマーク。
問い合わせ先:石田企画