【建築で好きだったのはパースを作ること】
「切り絵」というと、どういうものを思い浮かべるだろうか。滝平二郎のひし型の目の女、あるいは紙を切り、一筆書きのように線がつながっていて、影絵のようなものだと思う人もいるだ ろう。
切り絵画家の久保さんは、一枚の芸術作品として表現する。
日本の和紙にこだわり、産地で特 注したオリジナル和紙にパステルやアクリル絵の具で彩色したり、布や砂といった様々な素材をのせたりする現代アートの手法を取り入れ独自の絵を描きだす。
子供のころから手先が器用で、工作が得意。他人と同じことをするのが嫌だった。
建築学科に入学するも、建物の完成予想を立体的に表すパースづくりが楽しくて「紙を切った線は切り口が シャープで面白い」(久保)と朝から晩まで紙を切り続ける日々が始まった。
【出会いが人生を変える】
27 歳の時、SF 作家の小松左京さんと出会う。
小松さんが登壇するシンポジウムに聴講者として参加したのが始まりだ。
小松さんから「君の切り絵は、本の挿絵とかじゃなくて一枚の絵として表現してみたほうが面白いんじゃないか。
僕も SF を一つの純文学のジャンルぐらいの思い でやっている。
お互いそういうところを目指しているのは一緒じゃないか」と言ってもらった。
その後も、「もっと大きいものをつくれ」とアドバイスしてくれたり、彼の周りのそうそうたる人脈を次々に紹介してくれたり、個展を開けるように図らってくれたり、「もう少ししゃべれ」 「人をにらみつけるな」と、応援し続けてくれた。
「小松さんへの恩返しは、こうして小松さんの名前を出すことだと思っているんです」(久保)。
小松さんとのご縁で、岡本太郎さんから「まだ若いのに、こんなキレイなの作ってどうするの。
もっとメチャクチャしないと」と言われ、また同じ頃、司馬遼太郎さんの挿絵を描いていた須田 剋太さんから「どうも君の絵は俗悪だ。絵といっているが説明的だ」と言われ、相当なショック を受けた。
殻から抜け出すために小松さんと相談して決めたのが、海外へ行くこと。
スペイン行きである。
【カチカチ頭が少し柔らかくなって】
スペインで「こうでなければいけないということはない、という所に到達して自由に表現できるようになりました。
今思えば、カチカチ頭が少し柔らくなったんですね」(久保)。
一年後、日本に戻ってからも試行錯誤しながら混合技法で建物、人物、日本の民家、海外の風 景などを描いていく。
そんな時に起きた阪神淡路大震災で、何百年もそこにあり続けたものが一 瞬にして無に帰す光景を見て、自分の目、頭に描きだされる日本の伝統や文化の姿を残したい、 伝えたいという気持ちが強くなり、それ以降のテーマを「紙のジャポニズム」とし、日本を旅して生命力あふれる瞬間を切り取るようになる。
夢だった海外での個展も各地で展開し、絶賛を博している。
「60 歳過ぎて、やっと巨匠たち が何で大きいものを作れと言ってくれたのか、絵を描くということがどういうことなのかわかり かけてきました。『切り絵作家』ではなく『切り絵画家』と名付けてくれた小松さんが、『画家と つけないと一人前としてやっていけないだろう』と言ってくれたのは、そういう絵を描かなきゃいけないということだったんです」(久保)。
コム・デ・ギャルソンが好きで、「可愛いい年のとり方をしたい」と語る久保さん。
「世界中で『切り絵』という言葉を使ってもらえるようになりたい」と、切り絵を通じて日本を紹介し続けている。
文・岩崎由美