【向上意欲に満ちた社内風土】
「ミスター牛丼」と言われた安部修二さんは、吉野家の歴史と共に歩いてきた。
まだ、5店舗しかなかった時に入社し、倒産、再生の後、33歳で取締役になり、上場させ、その2年後42歳で社長に就任した。
22年間、会社を牽引し2014年に仲間たちといっせいに経営から退いた。
「チーム安倍は克服力や問題解決能力はあるんだけど、今と違う未来のイマジネーションや、その姿形をビジョンとして描いて局面をガラッと転換するのには残念ながら向いていない。執行者も新陳代謝しないとね」と潔い。
高校卒業後、ミュージシャンを目指して福岡から上京してきた。
吉野屋でのアルバイトが性に合い、熱心に近代経営を教えてくれて、向上意欲に満ちていた会社に魅かれた。
創業者の松田瑞穂氏は、チェーンストアシステムやノウハウを取り入れ、日本になかった全く新しいシステムを導入するため、力のある人材を集めていた。安部さんは、その一人だった。
【いつも向かっていってた】
ところが、急速なビジネスの発展に牛肉の調達が追い付かず、品質低下と値上げで客離れをおこし、それを懸念した銀行が短期融資の手形書き換えを拒否して負債総額115億円を抱えて1980年、倒産の危機に見舞われた。
30歳だった安部さんは、幹部候補生としてシカゴ支店を作るためアメリカ留学中に、その知らせを聞いた。
「渦中にいると、とりあえず目の前のことに精一杯だし、やることが一杯ありました。
状況がどうであれ、振り返るといつも向かっていってたなということは実感します。
ただ、周りが言うほど大変だったとは思っていません。元々、ストレスを持ちこさないキャラクターなんですね(笑)」。
東京に戻り、破産が決定する日まで「とにかく働こう」と、店を開け続けるために退職希望者を慰留する役割を担っていたため、自分は辞めるわけにはいかなかった。
「本当は早く辞めてゆっくりしたかった。
目の前のことをやっているうちに抜き差しならなくなって、その連続ですね。
崇高なことも何もないから偉そうなことは言えない」。
【克服力と挑戦力がDNAに】
その後、順調に増収増益を続けていたが、2003年BSEの発生でアメリカからの牛肉の輸入がストップし、原材料が100%米国産牛肉だったため牛丼販売を2年7か月中止することになった。
「倒産、再建、上場というのを目の当たりにして自分たちでハンドリングしていると、それだってそれほど特別なことでもないということに体験上なりますよ。だから吉野家の特徴は克服力と挑戦力がDNAにあると認識してほしい」。
そのDNAは、先輩たちが語り部として「何が起きてもたいしたことない」というメッセージを込めて語り継いでいる。
自分の役割は、松田氏の生み出したものをどう進化させ、継承するかという認識だったという安部さん。言葉の端々に、松田氏への尊敬と愛情があふれている。
「牛丼が好きだったし、おやじがやってきたことの凄みを立場が上に行けばいくほど感じました」。倒産させても恨んだりするばかりか、今でも当時のメンバーが集まって会を開き、忍んでいる。
「これだけ山と谷が繰り返しあると全部つながっていて、良くなる原点は、ぬかるみの時にねじ曲がらずちゃんと問題とまともに向き合って真摯に受け止め反省し取り組むこと。良くなった時に調子に乗って傲慢になると失敗の種を植えつけます」。
様々なものを乗り越えてこそ言える、含蓄のある言葉は本物だ。