【430年前の笛が身体の一部になって】
東京千駄ヶ谷の国立能楽堂に伺ったその日は、90歳の哲学者で文化勲章受章者の梅原猛さんの新作能『針間(はりま)』のお披露目の日。
『播磨国風土記』が1300年を迎えるにあたり、それを題材にした能を梅原さんが書き上げ、能楽笛方 藤田六郎兵衛さんが全体のプロデユースをした。
舞うのは人間国宝の梅若玄祥子さんだ。
藤田さんが進行役として、バリトンの深い声で客席に優しく語り掛ける。
「せりふは現代語なのでわかりやすいと思います」
現代語の能があるのかと、ビックリした。
能楽笛方 藤田流十一世宗家藤田六郎兵衛さんは、能楽笛方藤田流の家元だ。
「能楽の歴史は650年、我が家は400年、私が使っている笛は430年前のものです」(藤田)
1617年、初代が近衛家に仕えて以来10人の家元たちが手にしてきた笛「萬歳楽」を今、11代目が吹く。
先代が亡くなった昭和55年、初めて手に取ることが許された。
「能面も、鼓も笛も、能楽の世界では道具と呼ぶんです。毎日、自分の一部になるまで使い込んでいかないといけない。自分が使うようになってから2年位は思うような音が出なかったですね」(藤田)
笛が吹く人に寄り添い、身体の一部になっていく。
【できて当たり前の世界】
4歳から稽古を始め、5歳で初舞台を踏み、9歳で子供用の笛を卒業し、以降、能の主要曲を15歳までに披曲するという通常より10年早い異例のスピードで進んだ。
「耳と目で覚えたんです。オヒャーとかヒヒョーと書いてあるのを歌って覚えるんですが、目の前で父が吹いてくれて、指の動きを目で見て音を耳で覚えて、真似していったようです」(藤田)
子供のころからトコトン言われてきたのは「できて当たり前」ということ。
その厳しさの中でも、辞めようとか逃げ出そうと思ったことは一度もないそうだ。
「7つぐらいのときかな。良くやって当たり前と言われていたのに舞台で気持ちが悪くなってしまって・・・。僕の人生終ったという気がしたんですよ。それから笛を吹くのと気持ち悪いのが連鎖してしまいました」(藤田)
今でも、舞台のある日は、必ず朝から胃を空にしているというから、どれだけ神経をすり減らしているのか。
とはいっても、中学・高校時代は『男子専科』を愛読し(ありがとうございます)ビートルズやクリームに夢中になりギターも弾いていた。
先代の勧めで、これからの時代は西洋音楽に親しんだほうが良いと、同朋高校声楽科から地元の名古屋音楽短大声楽家に進学し首席で卒業した。
そのおかげでミュージカルにも出演し、人前で話すことに慣れ、演出の目が養われて能楽プロデユースに役立っている。
今は、年間100回以上の舞台と、主催公演、そのほか様々なジャンルの方たちと自由な発想でコラボレーションして創り上げるイベントも行う。
【伝統をつなぐためにすべきこと】
「 “ 伝統 ” には “ 守る ” という言葉がついてきますが、前の人がやっていたその通りに正しくやっているから正しい芸なんだというのは一番陥ってはいけない陥りやすいマヤカシです。芸能ですから、その時代の人に共感や、美しい、面白い、楽しいを伝えられなければ何の価値もないわけです。自分の生きている時代において工夫をすること。ありとあらゆる工夫をして、そのうち一つ良いのがあったらそれを次に残して工夫して、何百の試みをしてそのわずか100分の一が積み重なっていけば良いわけです。変えていけないのは精神の部分。表に見える形は変化して当然。その覚悟があれば、伝統はつないでいけます」(藤田)
「 “ 間 ” を活かすために音がある」と語る家元に、インタビューのときに笛を吹いていただいた。
その瞬間、その場の空気が一変した。この世とあの世がつながり、一筋の道が見える。
憑依したかのような藤田さんから空気を切り裂くような音が飛び出す。
音がつき抜け、切り裂き、鼓動が早まり、私はあっという間に異空間に連れて行かれた。