お笑い紳士録 「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」
「感動しちゃったんだから止められねえ」。音が鳴ると体が自然に動いた
【ラジオから流れてくるアメリカの音楽】
「負けん気が強くてやんちゃな小学生だった」と福島時代を振り返る千とせ。のちにジャズシンガーを目指し、最終的にはジャジーなスキャットに童謡などを融合させた「和風メルヘン」漫談でブレイクする彼だが、音楽との出会いは小学生時代にすでにあったという。
「小学生の頃はバイオリンを習っててね。教室とかはないから学校に先生が教えてくれた。ピアノもやりたかったんだけど、指が短いからダメだった(笑)」
学芸会ではヒゲにチョッキといういでたちでハワイアンを歌った。現在の芸風と似ているのが面白い。
「音楽といえば家にパンっと叩くと音が出る壊れかけのラジオがあったんだよ。そこから流れてくるのはジャズ、ゴスペル、カントリーといったアメリカンの音楽。今考えるとFEN、つまり在日米軍放送のチャンネルだったんだな。子供心に『何だこれは、すごいな』と思いながら夢中で聴いていた」
「戦争で負けた連中の歌なんか聞くんじゃねえ」と叱る大人もいたが、千とせいわく、「感動しちゃったんだから止められねえ」。音が鳴ると体が自然に動いたという。中でも強烈に惹かれたのが「ジャズ」だった。そういう音楽のジャンルがあると知ったのもこの頃だ。
【野鳥を捕まえて竹製のカゴで飼っていた】
中学生になった年の6月に挑戦動乱が勃発。福島の田舎町にもGIが大勢やってきて、街のあちこちからアメリカの音楽が聴こえてくるようになる。さらに、弦が3本しかない古いギターをもらい受けて遠い国の音楽を夢中で弾いた。アメリカに対する憧れはますます高まる。
本当は進学したくなかったが、父と兄の強い勧めで地元の定時制高校に進学した。「アメリカに行くなら英語を喋れないと」という思いもあった。しかし、どうしても学校に行く気になれない。
そして、アメリカの音楽以外の時間に千とせがのめり込んだのは小鳥の飼育だった。
「小鳥が好きだったんだね。メジロ、ヤマガラ、シジュウカラなんかの野鳥を捕まえて竹製のカゴで飼っていた。何羽もいて世話が大変だから、ますます学校から足が遠ざかるってわけ(笑)」
しかし、ここで人生を左右する大事件が起きる。東京の大学に行っている兄が帰省して、千とせにこう言う。「お前、高校はどうしたんだ」。「農作業でくたくたになるからあまり行ってない」と答えると、さらに鳥カゴを指差して「こんなものを飼ってるからだろう」と畳み掛ける。
【とっさに出た言葉は「アメリカに行きたい」】
「その後、兄貴が鳥カゴをポーンと蹴っ飛ばしたんだよ。小鳥は一斉に逃げた。泣きながら片付けをしてたら1時間経ったとき、『ピーピー』という鳴き声が聞こえてね。何だろうと思ってそっちを見たら、逃げたメジロが戻って来てた(笑)」
慌てて手のひらに餌を置いて近付けると、さっと乗ってきる。しかし、鳥カゴは壊れている。そこで、一部始終を見ていらしいた裏に住んでいるおじいさんが家から鳥カゴを持ってきてくれた。
メジロは無事にカゴに収まったが、おじいさんは言う。「お前どうするんだ」「僕が飼います」「何言ってんだ、また兄貴にやられるだろ」「……」「これは俺が面倒を見るから。代わりに何が欲しい?」
とっさに出た言葉は「アメリカに行きたい」だった。
おじいさんはしばらく考えたのちに、こう言った。「じゃあ、今夜駅に来い。もち米一俵を売って作ったお金を渡すから。リヤカーで持ってくからお前来い」。15歳の千とせは何もわからぬまま、そのお金を持って夜逃げ同然に郷里を離れた。
<師匠にひと言!>
歌手・作曲家、日本作曲家協会会員
岡島二朗さん
千とせ師匠と初めてお会いしたのは5、6年前かな。銀座の大きなホテルで開かれたパーティーの場でした。歌の話ですぐに意気投合したんですが、その後すぐに師匠から「寄席に出てくれないか」というお誘いが。「岡島二朗にしか歌えない歌をやってほしいんだ」と言われて嬉しかったですね。とにかく、歌にしても喋りにしてもジャンル分けしないところが師匠のすごいところ。今後も歌仲間として末長くおつきあいさせてくださいよ。
松鶴屋千とせ
日本の漫談家、歌手、司会者。小谷津家は下り藤の家紋である。
元東京演芸協会常任理事、南相馬市ふるさと親善大使、東京都足立区在住。アフロヘアーと、「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」のフレーズ、「イェーイ!」で決めるピースサインのポーズがトレードマーク。
問い合わせ先:石田企画